「洗礼を受ける意味」マタイによる福音書3章13~17節  

先週は洗礼者ヨハネが現れて、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と言って、悔い改めの洗礼を授け始めたことを聞きました。
 

この「悔い改めよ。天の国は近づいた。」という言葉は、その後、イエスさまご自身によっても宣べ伝え始められた言葉であると4章17節に記されています。これは、洗礼者ヨハネとイエスさまが語られた福音、そしてこの二人によって授けられた洗礼が同じ神に由来することを示しています。神さまはご自身の思いをヨハネとイエスさまを通して語られ、また神ご自身からの人間に対する招きを洗礼という形で表わされているのです。


 但し、この二人が語る福音の印象は少し違います。分かりやすく言い換えるならば、洗礼者ヨハネはイエスさまを指し示しながら「このお方によって救いが与えられる。だから、悔い改めて神に立ち帰りなさい。」と人々に呼びかけるのに対して、イエスさまはご自身を指しながら「わたしが救いである。だから、このわたしのもとに来なさい。」と語られている点です。


 それ故に、この二人が授ける洗礼にも違いはあります。洗礼者ヨハネが次のように語っていたことも思い出したいと思います。3章11節でヨハネは「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打もない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」


 洗礼者ヨハネ自身がここで語っているように、彼は「悔い改めに導くため」の洗礼を人々に授けていました。それは人々を神に立ち帰らせるためであり、神の方に向きを変えさせるためでした。いくら私たちを救うための「救い」が神から与えられ、備えられていたとしても、それを受け取る用意が私たち人間の側にできていなければ、その「救い」を受け取ることはできない。その「救い」が無駄になってしまう。だからこそ、洗礼者ヨハネは人々が救いを受け入れる準備を整えるようにと、「悔い改め」の洗礼を授けたのです。


 それでは、イエスさまが授けられる洗礼とはどのようなものなのでしょうか。洗礼者ヨハネの洗礼とはどこが違うのでしょうか。ヨハネはこのように語っていました。「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」と。

 「聖霊と火による洗礼」とは不思議な言葉です。でももっと不思議なのは、「イエスさまが私たちに洗礼をお授けになる」と語られていることです。四福音書のどこを見ても、イエスさまが人々に洗礼を授けられる場面は出てきません。多くの奇跡を行われ、たくさんの人々の病を癒し、悪霊を追い出されたことは何度も出てきます。しかし、イエスさまが「聖霊と火で洗礼を授けられた」ということは一度も出て来ないのです。


 但し、その出来事は使徒言行録2章1~4節にこのように記されています。

 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っている家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、〝霊″が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」と。


 これがイエスさまの授けられる洗礼です。神の霊である聖霊を人々に、私たち一人一人に注いでくださるのです。その聖霊の助けによって、私たちはようやくイエスさまの十字架の死と復活の意味を理解し、この救いと赦しの出来事がこの私のためであったということを受け入れることができるようになります。そして、この救いの出来事を私たち自身が宣べ伝える者へと変えられていくのです。


 今日の聖書のところでは、このような洗礼を授けられるお方が、洗礼者ヨハネのところに洗礼を受けるために来られた時のことが語られています。その時の洗礼者ヨハネの慌てふためきぶりが14節に記されています。

 「ところが、ヨハネはそれを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』」と。
 イエスさまは救い主である神の御子です。そのお方が神に立ち帰るため、神の方に向きを変えさせるための「悔い改めの洗礼」を受けるというのは、本来あり得ないことですし、全く必要のないことです。だから洗礼者ヨハネの応対はよく分かります。しかし意外にもイエスさまは、洗礼者ヨハネから「悔い改めの洗礼」を受けるのは正しいことであり、ふさわしいことであると言われました。しかも「我々にふさわしい」とも言われたのです。


 「救い主」と「救い主を指し示す者」として立場は全く異なりますが、同じ神から遣わされた者同士としてイエスさまは洗礼者ヨハネのことを見ておられます。また、イエスさまがここで語られている「すべて行う」の「行う」という言葉は神の思いが実現する時に用いられる「成就する」「成し遂げられる」と同じ言葉が使われています。

 つまり、イエスさまが「悔い改めの洗礼」を洗礼者ヨハネから受けることによって成就する神の御心があるということです。「救い」そのものを与えてくださるのがイエスさまですけれども、その「救い」につながる「悔い改め」の道を備えてくださるのもイエスさまである。それがこの洗礼によって示されているのだと思います。


 そしてこの時、イエスさまは水による洗礼と共にもう一つの洗礼をも受けられました。それが聖霊による洗礼です。16節に「そのとき、天がイエスに向って開いた。イエスは神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのをご覧になった。」と書かれているとおりです。この出来事は、水による洗礼を受けられ、水の中から上がられた時に起こりました。つまり、水の洗礼と一つにつながっていることが示されています。


 まず、水による洗礼が意味することは大きく分けると二つあります。一つは「清める」こと。そしてもう一つは「死」です。つまり、洗礼によって罪が清められることと共に、罪ある自分が死ぬことを示しています。「罪ある自分」とは何よりも自分を優先して生きる自己中心な生き方です。そのような生き方に死に、神の思いを中心にして生きる新しい命に生まれることを洗礼は意味しているのです。


 次に、そのような新しい命を人間にもたらすためにイエスさまは地上に来られ、私たちの身代わりとなって十字架に架かられ、そして復活してくださった。それを明らかにしてくださるのが聖霊による洗礼です。


 そして、この二つの洗礼が一つになって授けられているのが、神が教会を通してなされている洗礼です。神と共に新しい命に生きる道をイエスさまが開いてくださった、その神の恵みを悔い改めと感謝の思いをもって受け入れること。また、神の子どもとして神と神の家族である教会と共に生き始めること。それが私たちに与えられている洗礼の意味なのです。



 洗礼を受けられたイエスさまに、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声がありました。これはまずイエスさまに語られた言葉です。しかし、このイエスさまを救い主として受け入れる私たち一人一人にも神が語られるのです。

「悔い改めにふさわしい実」マタイによる福音書3章1~12節

3章に入り、赤ちゃんだったイエスさまは大人になりました。そして同じころに洗礼者ヨハネという人が現れます。最初はイエスさまよりも知られていた人物であったと言われています。「ユダヤ古代誌」という書物の中にも洗礼者ヨハネに関する記述が残されており、その働きと影響力はかなり大きなものだったと記されています。


「悔い改めよ、天の国は近づいた」と洗礼者ヨハネは言います。天の国とは神の国とも言われます。神さまが王として来られる時が近づいているのだ、ということです。本当の王としてお生まれになったイエスさまが来られる。ヨハネはその先駆けとなって、道を整え、王を迎える準備を人々にさせる役割を担っていたのです。

この「天の国は近づいた」という言葉は、実際にはかなり切羽詰まった状態を表現しています。のんびり構えてはいられない、天の国、つまり神が王としていらっしゃる時はもう目の前に近づきつつあるのだ。「いつやるか、今でしょ!」という言葉が少し前に流行りましたが、まさに悔い改めるのは今なのだ、とヨハネは人々に切り込んでいったのです。


その言葉を聞いて、多くの人々、しかもファリサイ派やサドカイ派の人々までが彼から洗礼を受けに来たと記されています。この時代、洗礼はユダヤ人でない人々がユダヤ教を信じる時に授けられる、清めの儀式でした。ですから、本来清められる必要のないユダヤ人であるファリサイ派やサドカイ派の人々は、別に洗礼を受ける必要もないということになります。なぜ彼らまでが来たのか、本当に洗礼を授けて欲しかったのか、単なる冷やかしなのか、明確な理由は聖書から読み取ることは出来ません。いずれにしても洗礼者ヨハネは彼らを歓迎しませんでした。


ユダヤ人はアブラハムの子孫、すなわち選ばれた神さまの民であるので、すでに救われている、という意識をとても強く持っています。どんな罪を犯しても、アブラハムに免じて赦されると信じているのです。旧約聖書の中にもアブラハムに免じて赦してくださいという祈りが記されています。洗礼者ヨハネは、そのような前提で生きているユダヤ人たちに対して非常に厳しい言葉をぶつけました。「『我々の先祖はアブラハムだ』などと思ってもみるな。」という言い方にユダヤ人たちが自分の血統ゆえに救われているという高ぶりへの怒りともいえる非難がにじみ出ているのが感じられます。

余談ですが「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」という中の「石」と「子」はヘブライ語では非常に似た発音なのだそうです。きつい皮肉を込めた発言、ということでしょう。


「悔い改めにふさわしい実を結べ」というのですから、洗礼者ヨハネはやってきたユダヤ人たちの悔い改めがなっていない、と主張しているのです。イエスさまも「良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」と後におっしゃっています。実が結ばれていない以上、悔い改めていないではないか、ということでしょう。


実を結ぶ、という言葉にはどうしても目に見える結果が伴うイメージがあります。悔い改めたので、罪を犯さないように気を付ける、自分のことばかりでなく他人のことをも心にかける、何より神さまのことを第一とする、などといった善い、愛のある業を行うことが悔い改めた実を結んだことになると思ってしまうきらいがあります。

しかし洗礼者ヨハネがユダヤ人たちに求めているのはそういうことではありません。しかもここにやってきたファリサイ派、サドカイ派の人々というのは神さまの律法をしっかりと遵守し、行ってきた人々です。「善い業」に関しては誰よりも優れたことをしてきていることはヨハネでさえも認めるであろうと思われます。ではヨハネが彼らに求めていることは、一体何でしょうか。


国語辞書で「悔い改める」という言葉を引くと「過去のあやまちを反省して,心を入れかえる。」とあります。悪いことをしてしまったと思う時、人は申し訳ないと思います。相手があることならば謝るのは当然です。場合によっては何らかの償いもするでしょう。そして、もう同じ過ちは犯すまいと気を付けるようにします。人が社会の中で生きていく時、これはとても大切なことです。しかし、神さまと向かい合った時には私たちの悔い改めはこれだけでは済まない、ということに気づかされます。


聖書でいう「悔い改め」とは「向きを変える」「立ち返る」という意味になります。人はなぜ罪を犯してしまうのか、悪いことをしてしまうのか。それは私たちが「罪人」だからです。神さまよりも自分を優先してしまう、アダムとエバの時から続く、罪ある人間はどうしても自己中心です。そして人に迷惑をかけ、傷つけてしまうのです。これを「反省して心を入れかえる」悔い改めをしているだけではいつまでたっても同じことの繰り返しです。私たちは自分ではどうにもならない自己中心の罪を持っているのだ、ということをしっかりと自覚しなくてはなりません。


自己中心から神中心に向きを変える。これが聖書の言う悔い改めです。生き方そのものを変えるのです。「悔い改めよ、天の国は近づいた」の言葉は本当の王である、神のひとり子イエスさまがおいでになるということだ、と最初に申し上げました。それは罪人である人間が、救いを受ける時がいよいよ来た、ということです。この聖書では省略されていますが、「天の国は近づいた」の前には「なぜなら」という言葉が本当はあります。つまり悔い改めなさい、なぜならまことの王である救い主イエスさまが来られたからだ、ということです。


悔い改めとは、まず自分自身をしっかりと見つめ直すことです。ユダヤ人ではない私たちですが、教会に行っている、すでに洗礼を受けている、ということがあのファリサイ派やサドカイ派の人々のように私たちを高ぶらせてはいないでしょうか。イエスさまの十字架と復活なしには、私たちはどうすることもできない自己中心的な罪人なのです。そのことを忘れてはなりません。日々、神中心の生き方になろうと立ち返る、私たちのために十字架にかかってくださったイエスさまを思い起こす、そして救われた喜びと感謝を覚えること、これが悔い改めです。




少し早い話ですが、まもなくアドベントに入ります。伝統を重んじる教会ではこの時期、教会のシンボルカラーを紫色にします。講壇に飾る布や牧師のストールが紫色なのをご覧になったことのある方もいらっしゃるでしょう。アドベントクランツのろうそくを紫色にする教会もあります。紫は悔い改めを表す色です。アドベントはクリスマスの到来を楽しみにすると同時に、悔い改める時期でもあるのです。


イエスさまを迎える準備として、私たちは「悔い改めよ、天の国は近づいた。」という聖書の勧めをしっかり心に刻み付け、自分を見つめ直し、神さまに立ち返る思いを新たにしてまいりましょう。

「確かな光」マタイによる福音書2章1~12節

今日与えられた御言葉には、二人の王の存在が記されています。一人はヘロデ王、もう一人は「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」と記されているイエスさまです。

イエスさまがお生まれになった時、ユダヤを治めていたのはヘロデ王でした。彼は父親の代からの親ローマ派です。それを理由にローマ軍の助けを得、当時のレビ族王朝を倒します。そしてローマからの任命で自分がユダヤの王となりました。また彼はエドム人といって、純粋なユダヤ人ではありません。そのような経緯から、ヘロデはユダヤの王として自分の立場には自信がなかったと言えます。猜疑心が強く、身内でも何でも自分の立場を危うくしそうな存在は片端から殺害するような人物でした。


そのヘロデのところへ、ある日見知らぬ人々が思ってもみなかった問いを持ってやって来ました。東方の占星術の学者と聖書には記されています。彼らがどこから来た、どのような人物であったのか明言は出来ません。当時の占星術は天文学のような、かなり洗練された学問だったと考えられています。彼らはおそらくバビロニアあたりからやって来た、かなり学識も身分も高い人物であっただろうと想像されております。


ただ、彼らが「ユダヤ人の王」とわざわざ言っている点から、この学者たちは外国人であったことは確実です。蛇足ですが、彼らは教会学校のお話などではよく「三人の博士」と言われます。人にそれぞれ名前があったり、老人、壮年、若者の人であったとか、黒人、白人、黄色人種の人であった、等ともいわれていますが、人数も含めて聖書にはそのような記述はありません。しかしイエスさまがユダヤ人だけでなく、全ての人々、民族の救いのために生まれて来られたことをこのような形で表現した、という意味で受け取ることは可能でしょう。その点では確かにイエスさまは外国人である学者たちの来訪と礼拝とをお受けになったのです。


話を戻しますが、ヘロデは学者たちの発言に相当な衝撃を受けたのではないでしょうか。自分でも知らないところで、知らないうちに「ユダヤ人の王がお生まれになった」のです。自分の地位を脅かす存在が現れたというだけではありません。最初に申し上げましたが、ヘロデは自分の立場を守るためには身内さえも平気で殺害するような人物です。今度はその「新しい王」に自分の命が狙われるかもしれない、と恐れたことも想像に難くありません。

ヘロデ王はじめ、エルサレムの人々が皆、不安を抱いた、と聖書には記されています。王が不安になれば民も不安になるのは確かです。しかし聖書がここで述べたいのは、単なる不安だけではないようにも思えます。


後になってイエスさまを十字架に付けよと求めたのはユダヤの人々でした。ずっと待ち続けていたはずの救い主を受け入れることが出来なかった彼らの姿を、ここですでに垣間見ることが出来るのです。旧約聖書に通じ、ユダヤの歴史を知り、救い主の生まれる場所までわかっていながら、いざ生まれたイエスさまを救い主と認めることが出来ませんでした。イエスさまを救い主、王として受け入れられない者が、そのお生まれを知って不安になる。この様子は創世記の、アダムとエバが神さまとの約束を破った時の姿を思い出させます。それまでは神さまと共に過ごすことが喜びであったはずの二人が、食べてはいけないと言われた善悪の知識の木の実を食べた途端に、神さまを恐れるようになってしまったのです。神さまよりも自分を優先し、結果として神さまと自分との間に何らかの隔てを作ってしまう時、人は恐れを感じ、不安になるのではないでしょうか。


占星術の学者たちに目を移します。彼らは旧約聖書やユダヤの歴史等について、学者である以上多少は知っていたかもしれませんが、それほど精通していたとは思えません。自分たちの専門分野である「星」がいつもと違う様子をしている、ということに気付き、調べ、新しい王の誕生のしるしと知り、そして遠路はるばるユダヤの地を目指してやって来たのです。


そして彼らは星がイエスさまのいらっしゃる所で止まったのを見て「喜びにあふれた」のです。イエスさまこそが本当の王である、と信じている者だけが得ることのできる喜びを彼らは得たのです。「ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」私たちにとってはクリスマスにお馴染みのシーンですが、よく考えれば現実味のない光景です。立派な身なりの男たちが、決して裕福とは言えなそうな家に入り込んで、高価な宝物を幼い子にうやうやしく献げている…私たちは既にこの幼子が誰だか知っており、それ故にこのような学者たちがこの子を拝していることに驚きません。献げられたものが幼子向けの玩具や食べ物ではなく、王にふさわしいものであるのは当然だと思っています。


しかしこの時、この幼子が本当の王であり、救い主であることを知っていた人がどれだけいたでしょうか。両親となったヨセフとマリアでさえ、天使から告げられていたことではあっても確実に全てを受け止め切れていたのかどうか定かではありません。それなのに、外国から来た学者たちが喜びにあふれてこの幼子を拝み、見事な贈り物を献げているのです。


星が偉大な人物の誕生を知らせるしるしである、ということは昔から言われてきた一つの伝説のようなものです。実際にこの時の星が何であったのかも、神学者によって諸説述べられてはいますが結論は出ていません。ただ何であれ、不思議な星の現れが彼らを救い主のところまで導いたのは神さまの御業なのだ、ということを聖書は伝えたいのではないでしょうか。この占星術の学者たちが理解したことは遠く離れたユダヤの地に偉大な王が生まれるということだけです。

けれども、それを遠い国の他人事とせず、自分たちも拝むべき王なのだと思い、立ち上がった時に全てが進みました。星は最後まで彼らを導き、確実に彼らが捜していた王のもとまで連れて行きました。彼らに大きな喜びを与えたのです。


私たちは誰を王とするべきでしょうか。ヘロデは王位を持つ自分自身に固執し、自分を守るためには周りを排除することを厭わない王でした。すなわち真の王を王とせず、それ故に真に王である方を怖がり、不安に陥り、ついにはイエスさまを殺そうとまでになりました。そこまでいかないとは言え、罪人である私たち人間の中には自らに固執し、自分が王となろうとする思いが創世記の時代からあるのです。



私たちは真の王であるイエスさまを王としなくてはなりません。学者たちを導いた星のように聖霊が私たちをいつもイエスさまのもとに導いてくださっています。そして真の王、救い主であるイエスさまを拝する時、学者たちのように喜びがあふれるのです。

「救い主のお名前」マタイによる福音書1章18~25節 

 10月より午後3時〜の礼拝になっています。          
 

先週はマタイによる福音書の最初、アブラハムからイエス・キリストに至るまでの系図についての説教を真咲牧師が担当されました。その説教の中で、この福音書では「イエス・キリスト」という表現でイエスさまが語られているのは二箇所しかないことを知らされました。一箇所は冒頭の1章1節、もう一箇所が今日の18節の御言葉です。



「キリスト」という言葉はギリシャ語で「救い主」という意味で、ヘブライ語のメシヤと同じ意味です。つまり、この「イエス・キリスト」という呼び方だけで「イエスは救い主」という意味になります。それ故にこの呼び方は最も短い信仰告白の一つと呼ばれることもあります。



マタイによる福音書は救い主であるイエスさまがどのようなお方であるのかを、まず読み手に十分に紹介するところから語り始められています。最初にイエスさまがどのような救い主でいらっしゃるのかを系図によって示し、今度は「イエス」というそのお名前そのものによって、このお方がどのような救い主であるのかを私たちに伝えようとしているのです。


 

そもそも神の御子であるイエスさまが、どのようにしてそのお名前が付けられたのかが、その誕生を予告する出来事を通して語られています。イエスさまの誕生が予告される聖書箇所で最も有名なのはルカによる福音書1章でしょう。イエスさまの母として選ばれたマリアが、そのことを天使ガブリエルから告げられる場面で、「受胎告知」という呼び名で多くの絵画も残されています。




それと同じような出来事がイエスさまの父として選ばれたヨセフにおいても起こりました。残念ながらこちらはあまり多くの絵画に描かれていないようですが、そもそもヨセフはマタイとルカのどちらの福音書においてもすぐに登場しなくなってしまいます。ヨハネによる福音書では名前しか出てきませんし、マルコにいたっては名前すら出てきません。このことから、おそらくヨセフはイエスさまが伝道活動を始められる頃には、既に亡くなっていたのだと考えられています。



そのように聖書の中であまり光を当てられることの少ないヨセフが、今日のところでは大切な役割を果たしています。それは先に記されている系図と無関係ではありません。ヨセフの夢に現れた主の天使がヨセフに向って「ダビデの子ヨセフ」と呼びかけていますが、この「ダビデの子」という称号が大事なのです。



系図の最初にも「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とありますように、イエスさまがアブラハムの子孫であるのと同時にダビデの子孫でもあるということが特に注目されています。福音書の中でもイエスさまは、あらゆる場面において群衆から「ダビデの子」と呼ばれています。それは多くのイスラエルの民が、救い主に対して抱いていた期待の表れでもありました。いずれダビデの子孫から起こされる救世主が現れ、王として自分たちを治め、敵を打ち滅ぼし、イスラエルの国を再興してくださる時が来ると信じていたのです。



 


その希望には全く根拠が無いわけではありませんでした。イスラエルの民は「その日が来れば、エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。(イザヤ書11:10)」という預言の言葉に望みをかけていたのです。他にも同じような預言はありますがここに出てくる「エッサイ」という人物は系図にもあるように、ダビデ王の父親のことです。つまり、救い主はダビデの子孫から生まれると考えられていたことを示しています。




そして、実際にそのダビデ家の血筋を引くヨセフの妻として、マリアからイエスさまがお生まれになることにより、この預言は成就したのです。ただ、もしかしたらその預言が実現しなかったかもしれないような危機があったことをも聖書は私たちに告げています。



婚約期間中のヨセフとマリアはまだ一緒には暮らしていませんでしたが、マリアの妊娠が明らかになりました。旧約聖書の掟によると、結婚前に性的な関係を持つことは許されていませんでしたし、婚約中であるならば尚更のことでした。この掟を破るというのは本来、石打ちの刑に処せられることを意味していましたが、この当時は申命記24章の掟に従って離婚することの方が多かったようです。



ヨセフも、この掟である律法に従い密かに縁を切ろうと決心したのですが、もしここでヨセフとマリアが別れてしまっていたならば、たとえその後にマリアが一人でイエスさまを産んでいたとしても、イエスさまはダビデの子と呼ばれることは無かったでしょう。そして、旧約の預言は成就されなかったということになるのです。



イエスさまは十字架上の死において、神からも人からも見捨てられるということを味わわれましたが、その誕生においても神と人から一度見放されることを味わわれたのです。そして、その見捨てられ、見放された状態から再び受け入れられることを通して、救われるべき私たち人間に救いを示してくださったのです。



主の天使を通して「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」ことを告げられたヨセフは、マリアを迎え入れるようにと命じられます。そして、それと共にその生まれてくる男の子を名付けることまでも命じられるのです。



名前を付けるというのは、ただ単に記号のようにものを区別するためだけにあるのではありません。聖書において「名付ける」「名を呼ぶ」というのは、その名で呼ばれたものの本質を表わすことであり、その名で呼ばれたものがその名の通りに存在する、実在することを示しています。創世記の天地創造において「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。(創世記1:3)」と語られている通りです。
 


これと同じことが、ここでも起こっています。ヨセフに現れた天使は言いました。「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからです。」と。この「イエス」という名は「主は救い」という意味の言葉になります。だから、天使は「この子は自分の民を罪から救うからです。」という説明をつけています。



 

ヨセフがマリアと縁を切ろうと一度は決心したように、私たち人間は繰り返し、神から離れ、神と縁を切り、神と無関係に生きようとしてきました。そのような自己中心の歩みを聖書では「罪」と呼ぶのですけれども、そこから全ての人間を救い出すために来られたお方であるからこそ、そのお名前はイエス(主は救い)であるというのです。


 


そして、もう一つ天使が挙げた名前「インマヌエル」は、イザヤ書7章に出てくる預言の言葉ですが、これは「神は我々と共におられる」という意味であると語られています。ここで語られている「神」はイエスさまのことを指しています。但し、この言葉はイエスさまの時代だけのものではありません。イエスさまの弟子たちに聖霊が降り、教会が誕生した時から今日に至るまで、神の霊である聖霊を通して神は私たちと共にいてくださるのです。




 やがて、御国において顔と顔を合わすように私たちは神と共にいることができます。しかしその時までは、聖霊が私たちと共にいてくださり、共に歩んでくださるのであります。


 最後に、最も短い信仰告白と呼ばれているもう一つの呼び名をご紹介いたします。それは、「主イエス」です。主は救いというお方が、私たちの主、神でいてくださるのです。



川上 寧

「すべての人の救い主」マタイによる福音書1章1~17節  

10月より午後3時〜の礼拝になっています。 

マタイによる福音書1章からの名前の羅列は初めて聖書を開く方にはもちろん、何度も読んでいる方々にとっても、少々うんざりする文章と言ってもよいかと思います。作家の三浦綾子さんは初めてここを読んだ時、何とか読みこなすために、自分が結婚する相手にはどの名前の人がいいだろうか、などと思いながら読んだ、と何かの文章に書いていらっしゃいます。私自身も正直申し上げて、いわゆる「ななめ読み」をしたくなる箇所です。


昔のユダヤの人々にとって、その人物がどのような出自であったかということは非常に大切でした。ですから旧約聖書にも数多くの系図が記されています。その当時の慣習を思えばこのように丁寧な系図が書かれていることは納得できます。しかし、この系図は単に伝統に従っただけではない、もっと大切な意味を織り込んだ内容になっております。


「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」という言葉でこの系図は始まっています。「イエス・キリスト」という表現は、たくさんあるかと思いきや、実はマタイによる福音書ではここと1章18節の2か所しかありません。他のところには「キリスト」抜きで「イエス」とのみ書かれています。あえて数少なく、大切なところでのみ「イエス・キリスト」つまりイエスさまは救い主である、ということを強調しているのです。


救い主はアブラハムの子孫である、とまず語られています。当時は救い主はアブラハムの子孫から出ると信じられていました。イエスさまはれっきとしたアブラハムの子孫であり、イスラエルの民(ユダヤ人)の祝福の基の血統を受けついでいるということがまず明記されました。しかし、実はアブラハムの血統であるということの意味はそれだけではありません。アブラハムは神さまから「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」という約束をいただいているのです。(創世記12:3)イエスさまはユダヤ人という特定の民だけでなく、すべての民を神さまのもとに導く救い主であるのだ、ということでもあるのです。


系図には4人の女性の名が出てきます。ここで重要なのは、この4人はおそらく全て外国人だということです。救い主イエスさまは外国人の血を引いているのだ、ということもここで「あえて」記されているのです。救いはユダヤ人だけのものではない、全ての民に与えられるものなのだと、いうことを系図を通して聖書は私たちに語っているのです。


さらには救い主はダビデの子孫である、と続きます。神さまがダビデに預言者ナタンを通して語られた約束があります。「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。(サムエル記下7:12)」この約束をもとに救い主はダビデの血統から出ると信じられてきました。ダビデ王の姿はユダヤの人々にとって、理想の王であり、救い主はまた、このような王の血筋から生まれてくるものであるという大きな期待がありました。


ところで、ダビデ以降の系図には、歴代の王の名前が出てくるのですが、必ずしも旧約聖書に書かれている歴史の内容とぴったり一致しているわけではありません。省略されている名前があります。おそらく意図的に省いたものと思われますが、なぜそのようなことになっているのでしょうか。

本来、系図の目的はその人の出自がどのようなものであるかということだと始めに申しました。その点では、王家の人名が省かれているという時点で、この系図はすでに正しいものではないと言えます。この系図には「もっと大切な意味」が織り込まれているとも申しましたが、それは何でしょうか。


17節を見ますと「十四代」という言葉があります。「アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。」この十四、という言葉を使うために、わざわざ歴史的には間違っていても名前を省いているのではないかと思われます。


14とは7の倍数です。7は完全な数と言われ、神さまが完全な方であることを示す数です。この系図には神さまの完全な御業があらわされているのだ、ということをいうために、十四代にこだわった系図が書かれたのです。(ちなみに実はきちんと数えると十三代しかない部分もあるのですが、神学者の研究では単なるミスか、歴史の中で抜け落ちてしまったか、明確には分かっていません。)救い主がお生まれになるのはただただ、神さまの御心であり、神さまの御業であるのだ、ということなのです。


旧約聖書を読むと、この系図に出てくる人々が救い主の誕生を妨害するような記事が次々と出てきます。そもそも筆頭のアブラハムがそうです。彼は約束の子、イサクの誕生を待てずに妻サラの侍女、ハガルに子どもを産ませます。最初から神さまのなさることの邪魔をしているのです。

ダビデもまた然り。ウリヤの妻、バト・シェバとの不倫事件は、この聖書箇所においてはバト・シェバにのみ悪女のレッテルが貼られがちですが、実際にはダビデがその罪を神さまから追求されているのです。危うく「ダビデの子」は不倫によって生まれた存在となるところでしたが、神さまによってこの時の子の命は取り去られ、正式に妻となってから生まれたソロモンが系図に加わっています。

そして「バビロンへ移住」と書かれていますが、これはユダヤの民が偶像礼拝に陥ったことで他国に攻め込まれ、バビロンに連れ去れられた「バビロン捕囚」のことです。この時ダビデの建てた王国は滅びてしまいました。ダビデの子孫に救い主が生まれる希望は一度絶たれているのです。


しかし救い主は誕生しました。アブラハムの子孫、ダビデの子孫として、救い主イエス・キリストが生まれたのは、神さまに背く罪人たちの愚かしい業を超えた神さまだけの御業なのです。


先週、寧牧師の説教の中でマタイによる福音書が目指しているところ、目的としていることとして28章19~20節の御言葉を示しました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」始めにイエスさまはすべての民を神さまのもとに導く救い主であると申し上げましたが、このことが最後の締めくくりでまた取り上げられているのです。同様に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」神さまがいつも人と共にいて、人の救いのために働いてくださっているのだということもまた、最後にもう一度しっかりと語られています。




神さまは、私たち人間をこよなく愛し、どんなに愚かな罪人であっても、神さまを悲しませる行いをなしてしまう存在であっても、ご自分のもとに引き寄せたいと願っておられる方です。そのために御自身のひとり子イエスさまを私たちのもとに送ってくださいました。すべての人がこの福音を知り、受け取り、救われることが神さまの切なる願いです。それほどまでに、人は神に愛されているのです。

    川上 真咲




「神に遣わされる私たち」マタイによる福音書28章16~20節    

10月より午後3時〜の礼拝になっています。 


これから暫く、マタイによる福音書の御言葉をご一緒に聞いて参りたいと思います。そうすると本来なら1章1節から始めるところですが、あえて、最終章28章の最後の部分から聞くことにいたします。


それは、この福音書が一体何処を目指して、何を目的として書かれているのかということをまず受けとめて、その思いを味わってからこの福音書の御言葉に触れていくのも意味あることと思ったからです。決して、1章1節以下の部分を説教するのが難しいからだという訳ではありません。いや、本当はそういう面も少しありますが、その難しい部分は来週、真咲牧師にお任せいたします。


聖書には有名な御言葉がたくさんありますが、今日の御言葉もその一つに数えられると思います。よく「大宣教命令」や「大伝道命令」等と呼ばれているところです。聖書に記されているイエスさまが弟子たちに向って語られた最後の言葉の一つです。そして、このイエスさまの語られた命令によって、弟子たちがイエスさまの十字架の死と復活によって神から人間に与えられた救いの約束、つまり「福音」を語り広め始めたのです。


また、弟子たちだけではなく、その後に続く全てのキリストの教会がこの言葉を引き継ぎ、福音を語り続け、洗礼を授けています。教会がこのことを成し続けているからこそ、人々が福音に出会うことができ、イエスさまに出会うことが起こされています。このように全ての人々に福音を証しし、その福音に生きる喜びを示すために招かれ、遣わされているキリスト者の根拠、教会の存在の根拠がこの言葉の内に表わされています。




イエスさまのこの言葉が記されている18~20節をもう一度お読みいたします。




「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」





このイエスさまのお言葉を私たちはどのように受けとめるのでしょうか。また、キリストの教会はこの言葉をどのように受けとめてきたのでしょうか。



ここで語られているのは命令の言葉です。「弟子にしなさい」「守るように教えなさい」と命令口調で語られるだけでなく、「あなたがたに命じておいた」とまで言われています。



私たち人間は本質的に人から命令されることを好みません。それが目上の人からのものであってもそうですし、突き詰めて言えば、たとえそれが神からの命令であったとしても、「命令」であるというだけで私たちは素直に聞けなくなってしまいます。






何故なんでしょうか。それはやはり、自分で物事を判断したいという思いが初めから私たちの内にはあるからではないでしょうか。自分の判断と異なるものを私たちは受け入れることがなかなかできません。何故なら、それは自分の判断が間違いであったと認めることになるからです。

旧約聖書の創世記において、アダムとエバが神の命令に逆らって、食べてはいけないという「善悪の知識の木の実」を取って食べたことにより私たちの内に入り込んで来た「罪」の問題は、このような私たちの心の思いを通して見えてきます。



しかし、そのように命の源であり、救いの源である神さまから進んで離れて行ってしまう私たち、自分で自分を救うことができない私たちを救うためにイエスさまはこの世へ来てくださいました。イエスさまの十字架の死というのはまさしく、罪の状態にある私たちの罪をご自身の血によって清め、赦すためであり、その死からの復活は、神と共に生きる新しい命が私たちに与えられたことを表わす約束のしるしでした。


そのイエスさまの思い、神さまの思いが込められた言葉として、この「大宣教命令」を聞く時に私たちは感謝をもってこの言葉を受けとめ、この主の思いに応える思いが与えられます。それは、いつの時代のキリスト者もキリストの教会も受けとめ続けてきた神の思いです。
イエスさまは、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」と仰いました。それは、神の権威と権限が全てイエスさまに与えられているということです。


 宣教、伝道というのは神の思いが広められていくことです。ですから、そこにはまず何よりも神ご自身の思いがあり、神ご自身が宣教されます。しかし、その宣教の対象は人間であるからこそ、神は人間を通してご自分の思いを伝えられます。一切の権能を与えられたイエスさまもだからこそ、その権能を独り占めされるのでは無く、先に福音を受け入れ、神と共に歩むことを受け入れた人々を通して働かれるのです。
 


イエスさまによって最初に選ばれた弟子たちが、このイエスさまからの大宣教命令・大伝道命令を聞くためにガリラヤに招かれたことの意味も改めて考えたいと思います。



マタイによる福音書において、ガリラヤはイエスさまが神の国を宣べ伝え始められた場所です。その同じ場所に、イエスさまは弟子たちを再び招かれたということです。
 


最初に弟子として招かれた時の彼らは、自分たちがどのような方に従っているのかということも、また自分たち自身が何者なのかということも本当の意味では分かっていなかったと思います。


そして、再び復活されたイエスさまに弟子たちが出会った時も、正直に言えば弟子たちの状態は決して良くはありませんでした。

17節に「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」と書かれているからです。
 


しかし、この弟子たちも後になって、ここで語られたイエスさまの言葉を思い出す時に、彼らの心は熱く燃え立たせられ、それこそ思いを一つにされ、伝道・宣教の道へと遣わせていったと思うのです。



復活されたイエスに平伏し、拝みながらも、疑ってしまう自分たち。ある意味ではイエスさまが十字架にお架かりになる時に逃げた時以上にイエスさまから離れてしまっている。しかし、そのような自分たちにイエスさまの方から近寄って来てくださり、語りかけてくださった。まるで、迷える子羊を探し求めるようにご自身の方から近づいてきてくださった。


そして、そこで語られた大宣教命令の言葉を後になって、聖霊が弟子たちの上に降され、神の思いに満たされた後に思い起こしたのではないでしょうか。その時に、本当に知ることができるのです。このような自分のためにこのお方は十字架上で死んでくださり、このような自分のために復活して今も生きていてくださるのだと。


 
 弟子たちを励まし、教会を励まし続けている御言葉は、そのままこの私たちにも語られている言葉です。
 


「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」というイエスさまの言葉の通りに、神がなされる宣教に遣わされる歩みの中で、この主と出会い続けることができるのです。

「収穫の主」 マタイによる福音書9章35~38節

礼拝メッセージ 


「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」


聖書には「残らず回って」「ありとあらゆる病気やわずらい」と記されています。すべてのところにイエス様は目を配られ、心を配られた、ご自分で行くところが出来るところへ一つ残らず出向いて行かれたということを聖書は述べたかったのではないでしょうか。

イエス様は誰一人、ご自分の目の範囲からもれ落ちることのないようにと、心を向けてくださいました。それは「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」からであります。羊についてはここにいらっしゃる皆様はもう何度も聖書から、また礼拝の説教からお聞きになっていることと思います。


私自身も教会学校の時から先生に教えられてきました。羊というのはとても弱い生き物なのだ。羊は目が悪い。羊は足が遅い。羊は角や牙のような敵と戦うにふさわしいものを持っていない。そして羊はひっくり返ったら、自分で起き上がることもできない。自分で食べるものを見つけることができない。敵がいても気が付かない、気が付いた時にはもう目の前にいる。でも戦うことができない。そしてすぐ迷子になる。

イエス様がしてくださった迷子の羊の例え話は、もうどなたもが空で話せるほどに何度もお聞きになっていることでしょう。羊は迷子になったらまず帰ってくることができない。飢えて死ぬか、野生の獣に襲われて命を落とすか…そのような状態になっている群衆を見て、イエス様は深く憐れまれたのです。



この「憐れむ」という言葉も、ご存知の方も多いかと思いますが、単純に「可哀想にね」というような、いわゆる「上から目線」の言葉ではないのです。元の言葉をたどっていくと「はらわたがちぎれるような思い」というニュアンスを含んでいると言われています。イエス様はそのような思いを弱り果てている群衆を見て抱かれたのではないでしょうか。お腹の底からよじれるような思い、居ても立っても居られないような思いを抱かれ、そのように弱ったものが一人もいなくなるよう、一人も自分のもとから離れてしまうことのないようにと「町や村を残らず回って」「ありとあらゆる病気や患いをいやされた」のであります。イエス様を突き動かされたこの深い「憐み」という思いは一人も自分の前から失ってはいけない、という思いではなかったでしょうか。


 続けてイエス様はこうおっしゃいました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

この聖書の御言葉によって、牧師になろうと思った人は多いのではないかと私は思っております。私自身もこの聖書の御言葉に背中を押されて、神学校に入ることを決めた一人でもあるからです。収穫のために働き手を送ってくださるように願いなさいという、イエス様からのお勧めの言葉ですが、しかしこれは、誰かを牧師にするためだけに記された聖書の言葉ではないはずです。

この「願いなさい」という言葉の前に、イエス様が宣言された言葉があるのです。「収穫は多い」まずイエス様は収穫は多いのだとおっしゃってくださっているのです。収穫がないから、少なくて足りないから働き手を送ってもらいましょう、とイエス様はおっしゃっているわけではないのです。すでに収穫はたくさんあるのだ、しかしそのための働き手が少ないのだとおっしゃっているのです。イエス様は人々を救うために、飼う者を見失って命を落とさんばかりになっている人々のために、そういう人々が神様のもとに行けるように、天国に行くことができるようにと十字架にかかってくださいました。私たちはすでに、神様のものとしていただいているのです。天国に行くことができるのです。


あらゆるところを回られ、あらゆる病気をいやされたイエス様の宣教の業の本当の意味は、一番初めに語られた「悔い改めよ。天の国は近づいた(マタイ4:17)」という言葉に表されております。自分が何者であるのか、どのような者であるのか、自分がどのように、何をしたらいいのかわからずに立ちすくんでいる人々のために、こちらが天国だよ、こちらが神様のいらっしゃる所だよ、あなたは救われている、神様のもとに行くことができる、収穫はあるのだと言うためにこの世に来てくださり、その収穫のために神の子であるイエス様ご自身が十字架にかかられ、死なれ三日目によみがえられて、人々が神様のもとに行く道備えをしてくださったのであります。


けれども、この事実を知らない人がまだまだたくさんいるのです。知らないからどのように歩んでいったらわからない、迷っている、そればかりか、このままでは確実に滅んでしまう、神様のもとに行くことができないまま終わってしまう。それがどうにも耐えられない、居ても立っても居られない、身もだえする思いでイエス様は「収穫は多いが、働き手が少ない」とすでにそのことを知っている私たちに働き手となるようにとおっしゃっているのではないでしょうか。


実際に教会に遣わされて、このことを宣べ伝えるようにと学ぶ機会を与えられ、牧師となる者、さらには海外へと導かれて宣教師となる者もおります。しかしそれだけではなく、全てのこの収穫を知っている者に宣べ伝えるようにと、この御言葉はあるのです。ある方はご自分の働いている職場でかもしれません。ある方は学校かもしれません。またある方はご家庭で、自分の家族に伝えるのかもしれません。幼い子供に伝えるようにと導かれる方も、お年を召された方に伝えるようにと導かれる方もいらっしゃることでしょう。


すべての場所で、お一人お一人が置かれているところで、私は救われている、私はイエス・キリストが自分の飼い主であることを知っている、私は神様のところへ行く道をすでに教えてもらっている、私は収穫が何であるのかを知っていると伝えることがイエス様から命じられているのではないでしょうか。


あらゆる形でイエス様を伝えることは出来ます。聖書を開いて、こういう言葉があるよと伝えることはもちろん、多くの言葉を重ねなくても、静かに祈っている姿を見せることでもイエス様を証しすることができます。ふとした何気ない言葉かけ、悩んでいる人、あるいは逆にとても喜んでいる人に寄り添う言葉が、人々に飼い主を教える言葉になるかもしれません。自分が神様から何かを与えられている、神様から真の命をいただいている、救われている確かな存在であるのだということを、自分に与えられている場所で、自分に与えられているやり方で表していくとき、収穫の主を示すものとして私たちは用いていただくことができるのです。


 「収穫は多いが、働き手が少ない」というイエス様の呼びかけにお応えして働く者とさせていただきたいと願います。


 川上真咲